この本は5年前に感想を書いているのだけど、再読しました。
初読みのときは、この本の章句を主に「カルマ・ヨーガの厳しくてイイ話」を、ヨガを続けるモチベーションに転化していた。そういう読み方をしていた。
はじめは、マヌ法典やウパニシャッドのありようや、新たに誕生した仏教やジャイナ教への心の科学に対応するものであること、そういう思想と歴史の関係をまったく知らずに読みました。
その後、いろいろな方面に学びを拡げてみました。そのうえで再読すると、その時代に生まれた道徳書としての価値に気づきます。少しむずかしいかもしれませんが、再読の感想を書く本はあまりないので、じっくり書きます。なるべくむずかしく感じないように書いてみますね。
<再読の目的を細かく書くと、こんなことでした>
※年号は説の違うものがたくさんありますが、J・ゴンダ先生の「インド思想史」巻末からとっています。
- リグ・ヴェーダ(ほぼ1000B.C.以降)、ウパニシャッド(600B.C前後)を読んでみて、その上であらためて読むとどうか。
- バガヴァッド・ギーターには「ヨーガ」という言葉がたくさん出てくるけど、できたのは前3世紀〜2世紀。ブッダ(仏教/560-480B.C.)とヴァルダマーナ(ジャイナ教/527B.C.入涅槃)よりも、うんと後世の時代であることを認識して読むとどうか。
- ヨギ、ヨーガ、ヨーギンなどのヨガっぽい言葉がいろいろなインド文献に登場するけれど、歴史という点でみるとヨーガ・スートラ以前のヨギ=苦行者、行者。イメージでは語れない。いま一般的に「ヨーガ」として伝わっているものは、バガヴァッド・ギーターよりもうんと後の「ヨーガ・スートラ」の時代のもの。(佐保田先生ががっちりこのスタンスをとっている) だとすると、バガヴァッド・ギーターでいうヨーガというのは、なんなのか。道徳心のようなものか。
- 神と権威を意識しながら読んでみると、仏教、ジャイナ教、ヨーガの関係をみた時、「バガヴァッド・ギーター」のとりまとめかたが異常に「上手い」。というのを「インド思想史」から感じた。その上手さ、巧妙さとは、なにか。
- ガンジーの思想にも「ヨーガ」という言葉がよく出てくる。これがおもにジャイナ教、ヒンドゥーイズム、バガヴァッド・ギーターの3つに素地があるとしたとき(あるらしいので)、バガヴァッド・ギーターの追う「精神の軸」の部分を確認したくなった。
などなどの理由があります。
ヨガを始めてから、いつもなんとなく「インド思想のどこかのフレーズを安易に抜き出してヨーガだというのは、なんかマズいんじゃないか」という思いがありました。なんというか、「それじゃ殺人カルト教団と一緒じゃん」というような。向き合い方としてです。自分の中に、ぐわーっとハマっていくものが発動するとき、同時にいつも「まあ、だからいろいろなことに利用できちゃうわけなんだわな」という考えがありました。だからといって、そういうことはどうやって紐解いていっていいのか。掘り下げる糸口が、よくわからずにいました。
そういう日々を何年も送ってきたのですが、ここ数年でヨーガの周辺や歴史のアウトライン、仏教やほかの宗教について、学びを広げていきました。これは、先のモヤモヤをなんとかしようと思ったわけではなく、ただ「仏像、いいわぁ」とか、「空海たん、萌えるわぁ」とかそういうところから始まって(笑)。ちょっとしたものに「なんでこの時代に、こういうものが生まれたのだろう」と感じることから、年号や流れを意識するようになりました。
そのうち、わりといろいろなことがパズルっぽく整理されて、スッキリしてきた。この「スッキリ」にとどめを刺してくれたのが、J.ゴンダ先生の「インド思想史」にあったこの部分です。
欲望、執着から恐るべき結果、すなわち、もろもろの精神的機能の破綻が生じる。欲望、忿怒、貪欲は、地獄への三重の門である。
ギーターはウパニシャッドと違って、ここで道徳的な要因を強調し、さらに細かい点(欲望は、「渇愛」trsna に対応する)でも、仏教との一致を示そうとする。しかし、重要な点で仏教とは異なる。仏教では「無明」(avidya)がもろもろの悪の根元であるが、ギーターで「無智」(ajnana)は、何ら因果の鎖の形而上学的原理でも、原点でもない。
(166ページ)
「仏教との一致を示そうとする」のところです。ヨーガ・スートラを読むとき、少し仏教を知っていたら、仏教教義の中にあるものとの「そっくりさ」を感じますよね。そっくりだなぁ、と思って、でもそのままにしてしまいます。わたしもそうでした。
(続きです)
その上、両者には著しい違いがある。というのは、ギーターの倫理的教義への出発点が、欲望をどう評価し、どう記述するかという点にあるからである。人は、「知者(=苦行者)たち」の説くように、無作(akarman)に執着し(少なくとも、無作を求め)てはならない。前に挙げた三つの悪徳を避け、ただひたすら当為として、行為の結果(=報酬)を顧みずに行為しなければならない。人は、私欲利己心を離れて行為すべきである。
(中略)
こうして、バガヴァッド・ギーターは、正常な生活を営む人間に一箇の道徳を与える。社会に生活し、またそれぞれの理由から社会での営みを続けなければならない人に過重なものを課すことなく、生活と活動の基礎を与え、同時に解脱への見通しを与える。それは日常生活の規範としても、あるいは多くの人が喧伝し、また仏教に意識的に対抗したバラモンたちが、社会事情などから、専ら老人や祖父たちに推奨した厳格な苦行者の道徳としても、そのどちらにも受け入れることのできるものである。バガヴァッド・ギーターの教えのこの部分にこそ、この詩篇がもつ迫力と成功の秘訣の大半が存しているのである。
「この詩篇がもつ迫力と成功の秘訣」。これは再読したら、少しこわい気持ちになりました。今日のタイトルを「従者マウントの書として読む」と書いたのですが、どんな場面でも応用が利いてしまう。「○ヶ月以内に○○万の会員数獲得を目指すなにかの研修」でも使える。
指示通りに人を動かすための「行動規範のまとめ」として大成功しているんです。
信じるものを堀り下げるのではなく、行為することを堀り下げるというアプローチは、ものすごく画期的です。
いっぽうで。
もしこれをキリスト教やイスラームの人が読んだら「ところで、クリシュナさんは預言者なんですか?」という質問をしそうな気がします。一人二役啓示として見た場合には、ちょっと苦しい。
でも「啓示じゃないです。同一人物です」で押し通せちゃうのがインド! これが、見ようによってはこの書を最大にわかりにくく、そして、面白くしてくれている。
この詩篇には、ざっくりこういう前提背景があります。
主役は、わたしはアルジュナだと思っています。
- アルジュナは、武術に長けた男の子です。
- 彼にはドリタラーシトラという叔父さんがいます。父親のお兄さん。
- ドリタラーシトラ叔父さんは盲目なので、サンジャヤさんという付き人(千里眼)が居ます。
- アルジュナには、クリシュナという「いとこ」がいます。ヴァースデーヴァというおじさんの息子です。
- アルジュナには、ユディシティラとビーマという兄がいるのですが、ユディシティラとクリシュナがけっこう仲良しでした。
- まあいろいろあって、あるとき悲しいことに、「ドリタラーシトラ叔父さんの息子軍」と戦争をしなければいけなくなりました。
- クリシュナはどっちの軍についてもアリな微妙な立場だったのですが、両軍から「うちに来ないか」と言われたときに、『「僕自身」と「僕の軍隊」、どっちがいい?』といって、うまいこと両者になにかをあげました。
- そのときクリシュナに、「あなた自身が欲しい」といったのがアルジュナでした。
- クリシュナは、アルジュナのメンターになりました。
という話です。平たくいうと、メンターである「いとこのお兄ちゃんのトーク集」です。
「いとこのお兄ちゃん」クリシュナは、お話が進むごとに、実はヴァースデーヴァ(バガヴァッド)である、いうことになっていきます。降りてくるというよりは、「実は同一人物なんだよねー」という流れです。4章でムクムク出てきます。なので、啓示ではありません。
解説を読むだけでややこしいのだけど、
(以下「バガヴァッド・ギーター」解説 より。箇条書きにしました)
前後の時代の「偉大なるもの」を同一視するのは、もうお家芸のようなもので……
(インド人が信用できない瞬間があるとしたら、その理由と同じ種かもしれない・笑)
ここからが、わたしがよく生ブログでいう「俺も俺も詐欺」みたいな話なんです
(同じく以下「バガヴァッド・ギーター」「解説」より)
なんというか、誰かが有名になったときに「あいつ俺のところに習いにきてたんだぜ」「俺の弟子のひとりだよ」「同じ系列のグルだよね?」という「呑み込み」みたいなことが、しょっちゅう起こる。ミスター・ビーンも中村ゆうじもチャップリンの化身だよ! と言ってしまうかのような(例のチョイスが偏っててごめん)。
それも含めて楽しむのがインド哲学の学び。ここをああだこうだきれいにしたいと思っても、無理。無理な感じなんだよなぁ。
- 頭のいい人たちだからこそ、呑み込んだり分解したりできた、と好意的にとらえるか。
- 権威をどう練り込んで勢力に変換していくかをあれこれした歴史ではないか、ととらえるか。
わたしはどっちも感じるのですが、「クリシュナだっ!」「シヴァだっ!」というインド人のあのノリと、「あなたはトーキョー、ジャパンのビジネスマンですかっ」というときの「地位・権威萌え」なノリは、似ている……。なんだろうなこれ。かえってそうじゃない人を拾いやすいという利点もあるのだが。
さらに本編の話に入ります。
「バガヴァッド・ギーター」には、玉虫色の魅力があります。
- クリシュナ信仰の土台の書
- 密教的グル関係確立の土台の書
- 聖戦を行為として説く書
- カーストを確固たるものにしようとした書
- マインド・コントロール説法の書
どの帯をつけても、まあアリなんじゃないかという気がします。
再読してみて感じたのは、こんなこと。
以下18章ぜんぶについて書くので、本気で読もうと思ったときや、読んだ直後に参照するくらいがよいかと思うのだけど、読む人は読みますかね。どうぞ。ツッコミ集です。
■1章
まるで源平の保元の乱を見るような章です。
そういう読み方をするとわかりやすさ、親近感が増す。
■2章
まだここでは、「おっとこれは、クリシュナという人がチャネリングモードに入っていくのかな?」という雰囲気が少しする。
「人を殺すことにためらいを無くすための洗脳説法」をしようと思ったら、これを下敷きにしたら鉄板だよね、な内容の多い章。
というような感じ続いて、10章でアルジュナの洗脳は99%。一面として、そういう見方で読むというのもひとつの学びだからね。「ブラフマン(梵)」が出てくるのもポイント。このあとクリシュナは「創造神としての僕」みたいな発言が多くなっていく。
■3章
クールダウンして、知性の話に入っていく。以降はしばらく単独で読み応えのある章が続く。ニクい流れです。
祭祀の義務も語られる。インド思想を学ぶ時、この「バラモン(神職)の背景」はいつも念頭においておきたいところ。
- 実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽(食物)を与えるであろう。神々に【祭祀】を捧げないで彼らに与えられたものを享受する者は、盗賊に他ならぬ。
- 諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素(グナ)によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
14章に「純性(サットヴァ)最強説」が登場するので、その複線ともいえる章。
■4章
バガヴァッド・ギーターの面白さは、「アルジュナの純粋すぎる質問力」にかかっています。
質問のきっかけとなる出だしは、こうです。
聖バガヴァッドは告げた(=クリシュナは話した)
私はこの不滅のヨーガをヴィヴァスヴァッド(太陽神)に説いた。ヴィヴァスヴァッドはそれをマヌ(人類の祖師)に告げ、マヌはそれをイクシュヴァーク(王名)に告げた。
このように、王仙たちはこの伝承されたヨーガを知っていた。しかしそのヨーガは、久しい時を経て失われた。
私は今、まさにこの古(いにしえ)のヨーガをあなたに説く。あなたは私を信愛していて、友であるから。実にこれは最高の秘説である。
と、いい感じで指導者モードに入っているというのに、
この章でアルジュナがクリシュナに尋ねるのは
あなたの出生は後であり、ヴィヴァスヴァッドの出生は前である。あなたが最初に説いたとは、どのように理解したらよいのか。
さすがアルジュナ! グッジョブ。
ここはかなり読み応えのある章なのですが、そのなかに「カーストの確定」の創造意向が明言されます。
私は要素(グナ)と行為を配分して。四種姓を創造した。私はその作者ではあるが、しかも行為しない不変のものであると知れ。
理解できるかアルジュナ?!
と思っていると、彼の質問力は5章からわたしたちのレベルのはるか先へいく。もう普通の人がついていけなくなる段階への境界となる章。クリシュナが本気を出し始める章でもある。
■5章
「解脱か行為か」最大のテーマにとりかかる章。
6章は「ヨーギンのなかでのヒエラルキー」という細かい話になっていくのだけど、5章で語られているなかで注目のしどころは、サーンキヤへの言及。
ブラフマンと仏教用語が登場しまくり、「知者とは」という話が掘り下げられていく。すごく巧妙。
■6章
アルジュナに対し『おまえさー、俺も神だから聞かれたらいちいち答えるけど、そもそも俺が言ってるのは「いいから戦え」ってことなの。そこんとこ忘れてないよね?』とリマインドしつつ、社会も仏教もうまく呑み込んでいくような、なんともいえぬ章。
親しい者、盟友、敵、中立者、中間者、憎むべき者、縁者に対し、また善人と悪人に対して、平等に考える人は優れている。
ガンジーはここを、すごく意識していたのだろうな。と思う章句。
この章ではアルジュナが、「俺、ヨーギンとしてやっていけっかなー」みたいな弱音を吐くのだけど(いい仕事する)、ここでのクリシュナの回答に、師弟関係のインドっぽさが炸裂する。
すべてのヨーギンのうちでも、私に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は、「最高に専心した者」であると、私は考える。
これ以上は、お前の学びたい意識に任せるよ、と。インド味200%な瞬間。
クリシュナはこのカード、上手いタイミングで切れたか? 切れているのか? ワクワクしながら読み進めましょう。
■7章
中間まとめの章。以下の部分について深読みをすると、仏教への意識が強く感じられなくもない。
無知な人々は、非顕現である私を顕現したものと考える。不変であり至高である、私の最高の状態を知らないで……。
この句がコーランにあっても気づかない(笑)。
正直ここは、アッラーさんとムハンマドさんの関係のほうがハッキリしてて気持ちがいい。
中途半端なチャネリングの限界を感じなくもない一節。
■8章
ウパニシャッドに似た例句が多くなる。この章の読みどころは「白黒ニ道説」。
■9章
創造主の行為=ヨーガ となっていく。聖バガヴァッドの全能感が炸裂。
この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。万物は私のうちにあるが、私はそれらのうちには存立しない。
とくる。
これも途中まではコーランぽいのだけど、アッラーさんだと末尾が違うだろうな。もっと慈悲深いので、「私もいつもそれらと共にある。なんなら頚動脈より近くで見守っちゃうよ」という感じだろうか。
■10章
アルジュナが完全に信者としてゴロニャーン態勢に入る章。
「あの神も俺、この神も俺、たぶん俺、きっと俺、っていうか絶対に俺」が、期待を裏切らないボリュームでリストアップされる。
■11章
この章がなければ、後世もっと違う伝わり方をしていただろうな。
アルジュナが「神の姿を見せて」と言ったら出てきちゃうトンデモ章。サービス精神旺盛すぎるよクリシュナ! ハクション大魔王か。
で、「ジャジャジャジャーン」ときて、洗脳ほぼ完了。殺人肯定ポエムも読みどころなんだけど
私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。
わたしはここで、アルジュナにこれ、言って欲しかったのだけど、言わないのねぇ。
「だったら僕が手を下さなくてもよくない?」
まー、見た感じ不動明王状態で出てきたクリシュナも反則だよなぁ、という状況なのだけど。
この章は、もう少しなんか「ガンジス川が立った」とか「割れた」とか「なんと透明になった」とかにして、出てこない展開にしておいたほうが良かったんじゃないかなぁ。わたしが言ってもしょうがないのだけど。
「見た目が怖いって、けっこう重要」という教えかもしれないけど(深読み)。
■12章
またもやクールダウン。「他の宗教も認めるよ」と、寛容さをアピールするような章。
このタイミングで入れてくるのが絶妙。
■13章
本格的な心の科学に入っていきます。読みどころはプルシャとプラクリティ。
プラクリティ(根本原質)とプルシャ(個我)とは、二つとも無始であると知れ。諸変異と諸要素とは、プラクリティから生ずるものと知れ。
プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受することにおける因であると言われる。
せめて言い切ってくれ!(笑)
■14章
純性(サットヴァ)最強説の章。アーユル・ヴェーダ好きは必見。
■15章
生気についての秘儀の章。16章で、「だから仏教よりもすごいんだぜ」というムードを出していく準備のような章と思えなくもない。
■16章
ヨーガ・スートラの下敷きになったのではないかと思うような章。
15章→16章の流れで読まずに16章だけに言及して「バガヴァッド・ギーターを踏襲するヨーガ・スートラ」ということになると、「仏教教義のわかりやすさに対抗したようなこの感じ」という感覚は日本人には伝わらない。
ヨーガ・スートラを読んで、「仏教っぽい」と感じる人がすごく多いと思うのだけど、こういう背景を知っておくと、また奥行きが出るのです。
■17章
他宗教を意識した言及が集約された章なのだけど、それが全部トリグナで説明されているのが面白い。
人々が果報を期待せず、ただ祭祀すべきであるとのみ考えて意(こころ)を統一し、教令に示されたように祭祀を行う場合、それは純質的な祭祀である。
一方、果報を意図して、偽善のために祭祀を行う場合、それを激質的な祭祀であると知れ。
不適切な場所と時間において、不適切な受者に対し、敬意を表さず、軽蔑して与えられる布施は、暗質的な布施と言われる。
律儀に分けてる。
■18章
「いざ、殺せ!」の章。
その心が我執なく、その知性が汚されていない人は、これらの世界の人々を殺しても、殺したことにはならず、(その結果に)束縛されることもない。
こういうフレーズが出てくるよ、という話。
カーストは根本原質によるから生まれつきなんだよ。と。ガンジーのなかの天使と悪魔は、ここをどうとらえたのだろう。
- 自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。本性により定められた行為をすれば、人は罪に至ることはない。
- 生まれつきの行為は、たとい欠陥があっても、捨てるべきでない。アルジュナよ。実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。火が煙に覆われるように。
巧妙だなぁ。よく読むほどわからなくなるのは、特定のなにかを想定して書かれているからだと思うんだ。
でもわからなくなる前にこの方程式に当てはまる「心あたり」が自分の中にあったりすると、ぐわーっとハマっていく。
こういうのは交通事故みたいなもののように感じなくもない。
最後にたたみかけるような章句でのクロージングは迫力満点です。
- 信仰を抱き、妬み(不満)なく、それを聞くだけの人も、(罪悪から)解放されて、善行の人々の清浄な世界に達するであろう。
- アルジュナよ、あなたは一意専心してこれを聞いたか。あなたの、無知から生じた迷いは消え失せたか。
念押し。
↓
結果。
アルジュナは言った。
迷いはなくなった。不滅の方よ。あなたの恩寵により、私は自分を取りもどした。疑惑は去り、私は立ち上った。あなたの言う通りにしよう。
game over(=マウント完了)。
アルジュナ、もういっかい頑張ってもよかったんじゃない?! と。もっかい、もっかいやってほしかったわぁ。といっても、なんぼでも出してくるだろうから、インド人にはかなう気がしない。
再読の今回は、アルジュナが「まほうのしつもん」を集めると神のおもしろい言葉がどんどん出てくるゲームをしていたかのような読後感だったのだけど、「ヨーガって素晴らしい☆」モードで読んじゃうと、ぜんぜんそうじゃなくなったりする。こわいわぁ。
今回はあえて
- 歴史的先行者としての「仏教びいき」
- 行為のヨーガの、行為が何に応用されてもいいのか
- というか、応用以前に、戦いをさせるための話だよなこれ
という目線で感想を書いてみましたが、歴史の大きなうねりのうえでは仏教に限らず「苦行ブームの後」なので、J・ゴンダ先生が「社会での営みを続けなければならない人にも、厳格な苦行者の道徳としても、そのどちらにも受け入れることのできるものになっているのがすごい」ということ、やっぱりこれに尽きます。これは、人口を減らさないための民族の智慧かもよ。
ガンジーは、「独立するインドのためのバガヴァッド・ギーター」を民に向けて謳ったんだ。そう思うと、ガンジーの思想のいろいろなひっかかりも溶解してしまう。
インド思想史は学んでも学んでも、きりがない。
★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。