うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

スーフィーの物語 ― ダルヴィーシュの伝承 イドリース・シャー 著/美沢真之助 翻訳

子供のころに西遊記に夢中になったときのような気持ちで読みました。
内容、翻訳、注記、付表、あとがきのすべてが丁寧に作られた一冊。イスラム教に予備知識のないすべての大人におすすめしたい。
この翻訳をした美沢真之助さんという方は、オルタナティブ・バンド「タコ」の隅田川乱一さんなのだそうです。わたしは知らない世代なのですが、読者さんの中には「おお」と思う方がいらっしゃるかもしれません。「訳者あとがき」が、とにかくすばらしい。


紹介の前に、そもそも「スーフィーって?」というかた(わたしもそうでした)向けに、頻出単語を「訳者あとがき」から抜き出してリストします。

イスラームでは「ファキール」が修行者。ヨーガやヒンドゥーでは「呪術者」「ぺてん師」という意味合いで語られている。このへんの意識関係は、この一冊を読む中で何度か感じられます。この本には82の物語が収録されているのですが、「盲人と象」「馬車」という話は、ヨーガ関連で知っていた。「馬車」は、ヨーガそのものの説明によく出てくるあれそのものでした。
いまの日本人のわたしたちは、まず「ダルヴィーシュ」という単語に野球選手を思い浮かべるでしょう。この本は96年の本なのですが、例にアブドゥーラ・ザ・ブッチャーの名前の由来を用いていました。(アブドゥーラ=アブド・アッラーフのなまりで、「アッラーの奴隷」という意味)わたしは70年代生まれの長州藤波世代なので、ブッチャーのたとえもど真ん中でした。


修行本? 宗教本? 神秘本? スピリチュアル本? ぜんぶ当てはまるのですが、アラビアン・ナイトに登場する話と共通するものもある。「中東民話」「イスラーム民話」というのが、感覚的にしっくりいきます。
訳者さんは、あとがきにこのように書いています。

神秘体験の表明は初期禁欲主義者には見られなかった特徴である。おそらく、こういうことではなかったのか。初期の禁欲主義者たちが、苦行の実践と、アッラーへの瞑想を続けているうちに、彼らは(あるいは彼女らは)なんらかの霊的体験をもった。それはイマージナリーな体験であったかもしれないし、感情的な体験だったかもしれないが、日常的な意識体験とは明らかに異なる、来世や不可視の世界に関わる認識体験であった。物質世界では共感や反発によってその対象が変化することはないが、来世あるいは不可視の世界と結びついた魂の領域においては、思考内容や意識の持ち方に応じて対象が次々と変化してゆく。そのような霊的世界の一端をかいま見たとき、彼ら(あるいは彼女たち)は、対象への愛が認識を深めるという古代からの神秘学の真理を実感し、神への恐れから、神への愛というスーフィズムの大転換が起きたのだ。

「来世や不可視の世界に関わる認識体験」とありますが、イスラームには仏教やヒンズー教のような輪廻思想がありません。


(同じく「訳者あとがき」から)

 イスラームでは、人間は死ぬと、魂と肉体が分離し、その状態が終末の日まで続くと考えられている。終末の日がやってくると、人間はふたたび魂と肉体が結びついた状態で復活し、アッラーの裁きを受ける。この世で行った善行と悪行とが天秤にかけられ、過去の行為のすべてを記録した手帳が手渡されて、善人は永遠に天国に住むことができるが、悪人は地獄で悲惨な苦しみを味わわなければならない。仏教の輪廻の考えとは違い、イスラームでは現世での一生は一度しかないので、現世の一瞬が来世の永遠に結びついているのだ。

「現世の一瞬が来世の永遠」なので、コーランの解釈が重要視される。


わたしは、神秘的な魅力を紹介したいのではなく、「文学としての面白さ」を伝えたい。文学かな。読んでみると、「言葉にならないようなオトシかたの落語を聞いたような」というのがいちばん近い。この本を読むと、そういう気持ちになるのです。
訳者さんは、このように語ります。

神秘的な内容を表現した物語のことをペルシャ語でヘカーヤトと言い、文学的な細部描写がない、全体を見渡せるほどの長さである、愛、旅、隠された財宝といったイスラームスーフィズムの教えに結びついた象徴的表現が用いられているなどの特徴がある。

(中略)

 想像してみるに、これらの物語は、一般的な文学のようにその世界が完結しているのではなく、意味的に開かれており、解読されるのを待っている。

禅的なんです。


それぞれの物語の注釈に、その「物語の存在」に触れる記述がありました。

<「追放されたスルタン」注釈より>
コーランのすべての章には、読者や聴衆の意識に応じた七つの意味がある、と言われている。
この物語では、他の数多くのスーフィーの物語と同様、「聴く者の理解力に応じて語れ」というムハンマドの教えが強調されている。

この、「教えること」についての教えがスーフィーの物語にはたくさんあって、あとでもう少し詳しく紹介します。


もうひとつ。

<「鉄の燭台」注釈より>
スーフィーの修行場では心のかたっくなな弟子のために、「発展のための訓練」として、この話が用意されている。ダルヴィーシュの「陶酔の道」の修行と関係があり、個人的な性癖を克服することなく行われる神秘的な修行には、危険が生じたり、効果のないことが示唆されている。

イスラームには、「陶酔(スクル)の道」と「素面(サフウ)の道」という分類がある。「陶酔の道」というのはヨーガの道のよくあるアレであり、白隠禅師や盤珪禅師のいう「禅病」(これを「マッチポンプ」といった養老孟司さんもすごい)。
このきっちりとした分類があるところ、その流れもこの本の「訳者あとがき」にあります。



この本には、そんな「意味的に開かれており、解読されるのを待っている」物語が82編収録されています。ここではその中から厳選してふたつ、ご紹介します。

<「愚か者と賢者と水差し」全文>
 愚か者とは、自分の行為や体験、他人から受けた行為などを、首尾一貫して誤って解釈している凡人のことである。あまりにもっともらしく誤解しているので、自分の思考や生活上の行ないが、自分だけでなく、他人にとっても論理的であり、正しいと思い込んでいる。
 ある日、まさにそのような愚か者のひとりが、主人から水差しを渡され、ある賢者から葡萄酒をもらってくるように命じられた。
 しかし、賢者の家に向かう途中、愚か者は不注意から、水差しを岩にぶつけて割ってしまったのだった。
 賢者の家に着いたとき、愚か者は水差しの取っ手を差し出して、こう言った。
「あなたの水差しを渡すように頼まれたのですが、いまいましい岩のやつに、水差しを盗まれてしまったのです」
 この話に興味をもった賢者は、愚か者の論理を調べてみたくなり、こうたずねた。
「水差しが盗まれたのに、どうして私に取っ手をくれるのですか」
「私は人が言うほど、馬鹿じゃありません。私の話が嘘でないことを証明するために、この取っ手を持ってきたのです」


注釈:ダルヴィーシュの導師がよく用いるテーマに、物事には隠れた繋がりがあり、それを見極めれば人生を完璧に生きることができるが、ほとんどの人間はそれを認識できないでいる、というものがある。

感じること、思うことは人それぞれでしょう。


もうひとつ

<「主人と客人たち」全文>
 師とは家の主人のようなものであり、道を学ぼうとする者は客である。一度も家に入ったことがないために、家というものについて曖昧な考えしか持っていない者もいる。しかし、それにもかかわらず家は存在する。
 初めて家に入った客は、座る場所を目の前にして、「これは何でしょうか?」とたずねる。「座るところです」と教えられ、彼らはそこに座るが、その機能にかんしては漠然とした意識しか持っていない。
 主人は一生懸命接待するが、客たちは質問をしつづける。なかには的外れな質問をする者もいる。しかし、優れた主人は、けっして客を非難したりはしない。たとえば客は、いつ、どこで、食事をするのだろうか、ということを知りたがる。自分は孤立しているのではなく、この瞬間にも料理を調理してくれている人々がいるということを、さらには、みんなで座って食事をする別の部屋があるということを、彼らは知らない。食事や食事の準備をしているところを目にしたことがないために、彼らは混乱し、ときには疑いを持ち、ときには居心地が悪くなる。
 優れた主人は、客たちが直面している問題についてよく知っているので、食事が運ばれてきたときに彼らが楽しめるように、客の気持ちを落ち着かせようとする。彼らは最初、とても食事をとれるような状態ではない。
 客の中には、ほかの客よりも早く家のことを理解し、家を構成するさまざまな要素の結びつきに気づく者もいる。このような人たちは理解の遅い友人たちに、そのことについて説明することができる。そしてその間も主人は、客の一人ひとりに、家の機能や統一性などに対するる彼らの理解度に応じて、語りつづけるのである。
 家が存在し、客を迎える準備がなされ、主人がその場にいるだけでは、十分ではない。誰かが主人の役割を積極的に引き受け、客や、あるいは主人がもてなすべき責任のある人物を、その家に慣れさせなければならない。はじめのうちは多くの人々が、自分が客であることに気づかなかったり、客であることにどんな意味があり、客の立場からいかなる貢献を行うことができ、何を得ることができるのか、よく分からないからである。
 家やもてなしについて学び、経験を重ねてゆくうちに、客は客であることに慣れ、そこでの暮らしのさまざまな局面をさらに理解できるようになる。しかし、家を理解したり、礼儀作法を覚えることにこだわりつづけるなら、それらの事柄に執着して、家具の機能や価値や美しさを鑑賞できなくなる。

客として・ほかの客よりも早く家のことを理解した客として・主人として。いくつものことを思うでしょう。組織論として読む人もいるでしょう。


付箋を貼りながら読んだのですが、「砂の話」「怒りっぽい男」「靴の扱い方」「三つの領域にかんする喩え話」「三つの助言」「香水通りでの出来事」「弟子の心得」「三つの指輪」もうなる内容でした。


アラジンと魔法のランプという話がありますが、スーフィーの物語にときおり「ジン」が出てきます。

(付表解説より)
人間が土から、天使が光から創造されたのに対し、煙の立たない火から創造されたと考えられている存在。超自然的な能力を持ち、善玉と悪玉がいる。

日本では、ハクション大魔王ですかね。


わたしは個人的に気になる人だけで年表を作ってみたりするのですが、ムハンマド(=モハメッド、マホメット)について、以前「玄奘三蔵空海さんのほんの少し前の時代の人なの?!」と驚いたことがあります。なんとなく、もっとうーーーんと昔の人のイメージでした。

(付表解説より)
イスラームを興した預言者イスラームの正統的な考えでは、ムハンマドは神の言葉を伝える使者であって、彼自身は神でもなければ、聖者でもない。しかし一般民衆やスーフィーの間で、彼はしだいに霊的な存在とみなされるようになり、完全人間のイデアの象徴と考えられるようになった。六三二年没。

ここで、「ファキール」の単語の意味合いの違いを感じるわけです。


わたしはこの本を読むまで、イスラームの教えについてほとんど知りませんでした。五島昭さんの「インドの大地で ― 世俗国家の人間模様」で以下のコーランの聖句を知り、ずっと気にはなっていました。

 私(神)は汝の頸動脈より汝に近いところにいる


短い言葉でこんなにも思いをぐるぐるさせるコーラン
この本で初めて知ったスーフィーの物語は、「秘儀を相手の状況に合わせて教えることの技術」を追求する教えばかり。
なにが響いたかといえば「仏教・ヒンドゥー教・ヨーガの教えとの共通性」ですが、そんなややこしい読み方は無用。「中東民話、レベル高すぎ!」という気持ちで気軽にイスラームの教えに近づける、すばらしい一冊です。

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イドリース シャー
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