岩波文庫版(翻訳:海保眞夫)で初めて読んで、この物語はこんな内容だったのかと驚き、続けて新潮文庫版も読んでみました。
二重人格の話というよりかは、ミッドライフ・クライシス期のおじさん版「ひみつのアッコちゃん」なんです。なんだそれと思われそうですが、読めばわかります。
この物語は世界的ネタバレ小説みたいになっていますが、繰り返し読むことで博士の葛藤の経緯に近づいていけます。二度目に読んだ今回は、主な語り手となっている友人アタスン(弁護士)の人格描写も含めて、ものすごい作品だなと思いました。
人間の性格を示す時の「善良」は、「揺れかた」を指しているのだなとつくづく思わされます。とにかく最初からおもしろく、序盤の弁護士とその友人の会話からすでに “匂わせ” がいっぱいです。
今回は特に以下の点が印象に残りました。
<アタスン弁護士の人格>
- どんな潔白な人の心にも、警察をちらっと見ると法律と役人に対する恐怖感を抱く感じがあると、弁護士が思っていること。そういうフラットな見かたができること
- ハイド氏の存在に迷惑しているというジーキル博士の発言に、それを利己主義と思いながらも安堵する気持ちを持つこと
<ジーキル博士の人格>
わたしはこの小説のどこがすごいって、すでに成功している50代の男性を主人公に設定したうえで ”平均的な性格の悪さとは” という、明言しようのない解を設定の力であぶりだしていくところだと思っています。
この年齢に達している政治家や教師など、権威ある人物の驚くような行為がニュースになるたびに思うあれこれが、「設定」によって自分の日々の心の揺れと地続きになっていく。
結局わたしも隣人たちと変りはないのだと考えた。わたしは自分と他人をくらべてみた。慈善のために活動している自分と、冷酷に無関心にぶらぶら怠けている他人をくらべてみて、わたしは微笑を禁じ得ないのだった。こんな自惚れた考えに耽っていると、突然胸がむかつきだし、つづいて怖ろしい嘔気といっしょに我慢しようにもしきれない震えが襲ってきた。
(本件に関するヘンリー・ジーキルの詳細な陳述書 より)
わたしはこの物語を読んで、小説が「装置」だという意味が初めて理解できた気がします。
自我と誇りの結びつきを解こうとするときに起こる思考のグラデーションを、この設定だと書けるから。権威を得た人間にとって、自分は特別善い人間ではないと思うことが実はどんなにつらいことか。それを知らせるかのようにハイド氏が存在している。
謙虚になるって、そんなに簡単ではありません。
ジーキル博士は陳述書の中で、このように語っています。
わたしはあえて推論する、人間とは究極のところ、ひとりひとりが多種多様のたがいに調和しがたい個々独立の住民の集団のごときものに過ぎないものとして把握されるだろう、と。
薬そのものにはなんら差別的な作用はなかった。それは神を生むものでも悪魔を生むものでもなかった。
最初にこの本を読んだ時の感想に、善と悪の対比ではなかったと書きましたが、今回は冒頭シーンの設定に、それを引き立てる下ごしらえのうまさを感じました。
自分自身を「調和しがたい個々独立の住民の集団のごときもの」と捉えたときに、その統合がなされている人間として、アタスン氏とエンフィールド氏の関係が魅力的に描かれています。自分を責めすぎず、自我と調和し葛藤するためには屈託のない朗らかさが必要で、二度読むとその価値がキラキラと輝いて見える。
「最後の夜」という章では、執事のプールと一緒に博士の部屋に入ったアスタン氏が、丁寧に準備を整えられた茶道具のそばにあった宗教書への冒涜の言葉の書き込みを見つける場面があります。
謎解きの手順はわかりやすく書かれているけれど、小道具の描写のちょっとしたところに様々な対比が描かれていて、ネタバレしてても何度も読み返したくなる。
この本は、巻末の注釈にある聖書の引用部分の解説がわかりやすいのも良いです。文学を愉しむ人の教養ってこういうものなのね! という発見がありました。
太宰治の小説に『駆け込み訴え』という、聖書を題材にした爆発的におもしろい短編があるのですが、『走れメロス』も聖書が元ネタ(デモンとピシアス)だったことに気づいたりして。
著者のスティーブンソンは、この物語を数日で書いたそうです。
だからこその勢いというか、ものすごく力がある。次はどの翻訳者の訳で読もうかな。子ども向け版もおもしろそうです。