うちこのヨガ日記

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サンカルパの練習。他者の評価が介在しない目標文章をつくれるか

ヨガニードラーで唱える短い文章(サンカルパ)について。

サンカルパを立てることは、自己と向き合うとても正直な時間です。あまりにもまっすぐすぎて、恥ずかしくて照れくさい、そういう時間です。だからついつい、他人の頭を借りたくなる。それらしいなにかを引用したくなる。

もしその目標や誓いの達成に他者が介在しているとしたら、あなたは他人の道を行こうとしているかもしれません。「他人の道」というのはちょっと独特な言いかたですが、バガヴァッド・ギーターの日本語訳に出てくる表現です。

他人の義務をひきうけるより 不完全でも自分の義務を行う方がよい

他人の道を行く危険をおかすより 自分の道を行って死ぬ方がよい

(バガヴァッド・ギーター 第3章35節 田中嫺玉 訳)

これはサンカルパについて述べた節ではないのですが、意思の混乱という点で共通性を感じています。わたしはこの節の訳の「他人の道を行く危険」という訳しかたがとても気に入っています。

サンカルパの推敲の過程にあるものは、この節に出てくる「道」の見極めと似ている。

 

サンカルパの短い文章を自分で見つけられたとき、そこに心強さの芽のようなものが生まれます。他者の評価を削ぎ落とすプロセスにとても大きな意味がある

人は自分の心で自分を向上させ 決して下落させてはならない

心は自分にとっての友であり また同時に仇敵でもあるのだ

(バガヴァッド・ギーター 第6章5節 田中嫺玉 訳)

自分の心で、やる。

サンカルパは、神聖な誓い。この「神聖」というのが日本人のわたしにはどうもピンとこない。子供のころには大人を、大人になってからは権威を神かのように漠然とあてにする生きかたをしてきたので、そのアイデアが根底になかった。わたしにはトレーニングが必要でした。サンカルパの推敲の時点でトレーニングが必要でした。

 

もしいま、自身のサンカルパのなかに他者が介在しているとして、その他者が悪魔的な思考に陥った時にもその目標文章に穴がないといえるか。神聖でないものが入り込む余地のあるサンカルパの文章はのっとられやすく、うっかりしてると他者から意識がハッキングされてしまいます。

わたしの場合はこんなふうに、何度も何度も穴がないか見直しながら探していきました。B'zの歌か! と思うくらい長い長い文章から削り込みつつ推敲を何年もして…というプロセスを経ています。

 

 

他者の介在する目標には、評価者・評価基準・評価方法の明確化が必要になります。

半期や四半期ごとに目標設定をするような業務の人には見慣れた文字列かもしれません。評価が属人的にならないよう、数字や計測システムや集計ツールなどが用いられることも多いでしょう。計測自体はそれで対応できるとして、その数字は結果として妥当かということは結局人が決める。そこには倫理・道徳観もあわせた人道的な、エコノミック・アニマルではない人間の判断が必要となります。

Amazon食べログのレビューのように他者の足を引っ張る仕組みになりえてしまう穴があるものを信じてしまう人ほど、他者の評価にのっとられやすい思考をしているかもしれません。

 

 

わたしはこれらの「他者の評価が介在する目標」について、その設計ができずに投げ出す人や、設定から達成までが意志でつながっていない状況を社会の中でたくさん見てきました。一般的にエリートと言われる人でも、投げ出している人がたくさんいる。

そんなさまざまな経験の後でヨーガニードラーの練習をはじめたので、「サンカルパ」という概念を知った時には驚きました。わたしがヨガクラスでたまに「インド人はほんとうに頭がいい」と話すのは、こういう実体験のジレンマをどこまでも超えていこうとする思想に対して、畏怖も含めた敬意があるためです。

 

 

人間には、自己に対して祈念をする能力がある。

わたしはこれを中年の危機といわれる年齢になる前に知って命拾いをしたなぁ…。と、たまに思います。

「この肉体と精神の組み合わせを使って、何を達成しようかな」こんなふうに瞑想の前に目標を意識することで、漠然と将来を憂う瞬間の沼にズボボと引き込まれずにすむ。

わたしが「いきなり瞑想をするのはあぶないので、まずはアーサナから」という段取りを踏む理由には、自己に向き合うつもりがそれは他の人から借りてきた自己のイメージであったという事態をなるべく避けたい、という意図もあります。