先日、美容室にあったHuluで「モンキー・マジック 孫悟空誕生」という映画を半分くらい観たのですが、孫悟空が桃を食べるシーンで「そうそう、これこれ」と思う挙動がありました。わたしが子どもの頃にテレビで観ていた西遊記では、猪八戒も同じような食べ方をするうえにむしろそっちのインパクトが強すぎて、豚に記憶が上書きされてしまっていました(西田敏行 > 堺正章 ←こうなっちゃってた)。
が、この映画の中で、右手左手でそれぞれ桃をとっては一口ずつ食べては手放す孫悟空の動作を見て「そうそう、これこれ!」と。手当たりしだいという感じが、まさにモンキーマインド。
「モンキーマインド」という言葉はマインドフルネス瞑想の説明に使われているようですが、わたしはこの言葉を「猿の心」「牛の心」という対比で教わりました。
先日もうひとつのブログ「まろやかインド哲学」のほうに無執着の間違った理解について書きましたが、わたしが授業を受けた先生はそのような話しかたをするかたで、生徒が「ここで教わったことを、わたしは理解できただろうか…」と呟けば「君が理解したかどうかは、君が母国語で他者へ伝えて、それが伝わったことでしか証明されない。だから僕はわからない(ニヤリ)」という返答。
そのような教わり方をしてきたので、以来わたしは日常の語感に落とし込んだ言語化をあれこれ試みているのですが、わたしが今モンキーマインドについてヨガクラスで話すときは「人は新しいものを求めもするし嫌いもする」というふうに、猿と牛をセットで話すようにしています。
これはヨガを続けて10年くらい経ってから少しずつ気づいたことなのですが、いろいろなアーサナや知識どんどん習得していても、その状況がただモンキーマインドとのマッチングの繰り返しでしかなかったのではないかと、そんなふうに思うことがあります。モンキーマインドが優勢だと、新しいものを得られなくなったときに心がふて腐れるというパターンに陥るので自分でもわかるのです。
これはヨガのアーサナに限らず職能・技術習得でもわりとよくある現象で、過去にやってきたことを振り返って、いつでも自分の言葉で他人に話せるほどまで身についていないことはだいたいこのパターンであったように思います。まともに振り返ると、けっこうがっくりきます。
この振り返りを経てから、近ごろは読む本の選び方が変わってきました。モンキーマインドがとりあえずのターゲットとして捕獲したくなっているものと、そうではないものが少しずつ傾向として見えてきて、意識的に選ぶようになってきました。日常でこの "猿の飼い主感覚" を持つことによって、他者に対して侵略的なふるまいをしないよう自分を制御しやすくなるとも感じています。
いまは他者とつながりやすくなりつつパーソナル・ゾーンは広くとられるようになっているので、猿が手を伸ばす範囲の制御能力がすごく問われるというか、そこで猿と人間の境界を見られる、そんな社会。いつだってトレーニングが欠かせません。
交友関係についても考え方が変わってきました。外側の変化だけでなく内側の変化に目を向けてコツコツ行為を重ねていくスタンスを共有できる仲間が将来の宝になるだろうと、わたしは近ごろそんなことをよく考えます。反省仲間とでもいうのかな。30代までは仲間というと共通の敵を倒しにいく感じであったのが、いつの間にかそうではなくなっています。
自分の中の猿も牛も豚もカッパも(西遊記にあわせて増やしました)、自分のなかにある心の組織の一部として飼いならそうとしてがんばっている、そういう人を見ると「お。仲間だ」と感じてうれしくなる、そういう瞬間が多くなっています。
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